ジンジャー、クミン、コリアンダーの香りがあいまった店内が、幸の鳴らすベルの音で静まった。
洸と良介が、並んで楽器を抱いていた。
マイクもないので、洸は柄に合わず、少し声を張った。
「皆さん、今日は大晦日にお集まりいただき、ありがとうございます。
少しの時間ですが、代官坂2celloの演奏をお楽しみください」
洸が良介を見た。良介は弦から楽譜へと視線を絞った。指を添えボウを引く。
いつかここで佐伯洸が弾いた「無言歌」だった。最初に良介のソロで始まり、洸の豊かで量感のある音が重なった。
まるで兄弟のようだと幸は思った。弾いているときの洸は完全に兄だった。いつもは隠しているような包容力というか、男性的なおおらかさが見えた。
良介は額に汗を滲ませながら、懸命に弾いていた。どちらかといえば、彼の方の音は小さく、しかしどこか繊細な響きがあった。時折、目を閉じ、唇を震わせるような表情をした。表情だけは彼の方が派手なほどだった。
演奏が終わると、大きな拍手が上がった。1曲目が終わると、良介もホッとしたようだった。
恭仁子は二人の表情を交互に見守りながら、人生で一番幸せな時間だと感じていた。
「次の曲は、僕のオリジナルで『坂の上にあるひだまり』という曲です。横浜で過ごす時間は、僕にとっては生きてきた道のなかのひだまりのような時間でした。この曲を学生時代に一緒に弾いていた良介と一緒に弾くことができるのは…本当に嬉しい。幸せです。そして、それはこの店と、幸さんと、ここにいる皆さんのおかげです。ありがとう」
また拍手が上がり、幸は深々とお辞儀をした。
「二人で弾く最後の曲は『Moon river』です。今、僕たち漂流者は今夜は二人で一つの河を渡ります」
最初にやはり良介がソロを取り、洸はギターのようにチェロを抱いてピチカートで伴奏した。そして、今度は洸がソロを弾き、良介が音を重ねていく。
友情は何十年経っても、そこにあったのだ。
誰かが誰かを好きでいた。それもまた、時の流れのなかでは、形もなく、ただほのかにそこにあるだけで。
恭仁子は「もういい」と思った。何がいいのか、わからないけれど、ただ、良介のことも、洸のことも、大切なのだと。自分の人生は、二人がいてくれてこそ、輝いているのだと。
今このとき、洸と良介の二人の友情が本当に月の河をそこに描くようだと、恭仁子も幸も目を閉じた。
拍手は鳴り止まなかった。
矢作夫人の目にすら、うっすら滲むものがあった。
幸は込み上げるものをただ流れるままにした。
アンコールの掛け声と共に、どこかで最初の除夜の鐘が遠く、低く鳴った。
新年を迎える町は緊張しているように閑かだ。
外はしんしんと寒いけれど、ヒトサラカオル食堂にいる人たちの心は、ほくほくと、あたたかだった。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
http://moriaya.jp
https://www.facebook.com/aya.mori1
イラスト サイトウ マサミツ
イラストレーター。現在『婦人之友』表紙と目次。
J-WAVEラジオ番組『TALK TO NEIGHBORS』2つのイメージイラストを手がける。
*絵本:『はだしになっちゃえ』『ぐるぐるぐるーん』他(福音館書店)『Into the Snow』他(Enchanted Lion Books)など多数。
*ホスピタルアート: 愛知医大新病院 他、現地で手描き制作。その他壁画、ウィンドウアート、ライブドローイングなど幅広く活動。個展多数。
☆2025.1.17〜31 銀座 伊東屋 K.Itoya B1F にて個展を開きます。
Instagram:masamitsusaitou