「優菜さんは、何をしてるの」
コンプライアンスという言葉を知らずに現役を終わったおじさんは、怖いもの知らずにグイグイ女性に質問を投げかける。
セルジュはそういう時代の人だ。幸は優菜が嫌がらないかと様子を伺いながら、聞くとはなく聞いていた。
「私、看護師です」
「素晴らしい仕事だねえ」
セルジュは、優菜のところへ頼んだビールが来ると、乾杯、と、自分のグラスをちょっと掲げた。
「どうも」
優菜は自分のグラスもちょっと掲げて、ひと口飲んだ。
「でも私、向いてないんですよ。10年もやってるのに、今さら変なんですけど」
職場で何かあったのかも、と幸は思った。
そこにいるのは皆オトナだ。オトナというのは、そんなこともあんなことも、経験してきたから、そこで彼女にはもう何を問うことも必要ないとわかっていた。
「さ、あったかいの炊けたから、みんなでどうぞ」
幸は白いアスパラガスで炊いたご飯を一膳ずつ運んできた。
ストウブ鍋で塩と砂糖とちょっぴりのレモン汁で炊いたご飯だ。白いアスパラの皮からもしっかり味が出ている。仕上げに、混ぜたバタの香りがアスパラの香りと相まって、優しく立ちのぼる。
優菜はひと口食べると、目を丸くした。
「美味しい。なんていい香り」
食べ終わると、自分からぽつりぽつりと話し始めた。
「父みたいな、患者さんがいて。私のことを、ガサツだって、大きな声で怒るんです。私、その声を聞くと、なんかたまらなく嫌な気持ちになって、怒られると、余計、うまくできなくて」
幸は思った。確か母親が亡くなったと言っていた。こんな時、優菜は本当なら母親に相談したのかもしれない。そう思うと、なんとも言えない気持ちになった。
「お父さん、優菜さんのこと、すごく可愛いいのよ。その患者さんもきっと、優菜さんのことを嫌いなわけじゃないよ」
セルジュが頷いた。
「だいたいね、おじいさんていうのは、不機嫌なものなんだよ」
優菜はハッとした顔をした。
「そうなんです。おばあさんより、おじいさんの方が不機嫌なんですよ、どうしてかしら」
セルジュはくつくつとおかしそうに笑って言った。
「どっか痛いんじゃないの。でも認めたくないんだよ」
そのシンプルな答えには、みんな笑うしかなかった。
白いアスパラのごはんの香りはまだ店全体を包み込んでいた。それはまるで、親が子どもを思う気持ちのように。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
http://moriaya.jp
https://www.facebook.com/aya.mori1
イラスト サイトウ マサミツ
*戦後80年、旧日本銀行広島支店の歴史的な建物を会場に、ダイアログ・イン・ザ・ダークの特別なプログラム”PEACE IN THE DARK"が無料開催されます。その一環として、東京の『対話の森』アトレ竹芝シアター棟1Fでも、PEACE IN THE DARKが開催されることになり、今回、ダイアログ・ジャパンソサエティ代表の志村さんご夫妻から、ぜひ平和に向けてのウィンドウアートを描いてほしいとお声がけいただきました。
ウィンドウアートは2025年7月5日~8月いっぱい、外側からも内側からも見られます。
https://taiwanomori.dialogue.or.jp/
*J-WAVEラジオ『TALK TO NEIGHBORS』の番組イメージイラストを2種類制作。
*『婦人之友』2024.4月号〜2025.3月号の表紙と目次の絵。
*絵本:『はだしになっちゃえ』『ぐるぐるぐるーん』他(福音館書店)『Into the Snow』他(Enchanted Lion Books)など多数の絵を手がけている。
*ホスピタルアート: 愛知医大新病院 他、現地で手描き制作。その他壁画、ウィンドウアート、ライブドローイングなど幅広く活動。個展も多数開催している。
Instagram:masamitsusaitou