代官坂のお屋敷の枯れた紫陽花に日差しが照りつけている。
猛烈に暑い日が続いたが、その土曜日は比較的涼しかった。この辺りは、他所に比べれば、ゲリラ豪雨の被害もまだなかった。
夏雲を眩しく見上げて、盛田幸は店の鍵を開けた。
10時。暑さでこのところ、ランチの客は少ない。それでも、昼飲みに駆けつける常連たちのために、店を冷やしておくのは必須だ。
すぐに手伝いの恭仁子もやってくるだろう。
店に入ると、一本、お香をたく。涼しげなミントの香りは、モロッコをイメージしたものらしい。
モロッコには行ったことがなかったが、彼の地でアテンドをしながら、元町でKAORISというカフェを営む女性が、以前、この香りを嗅いで「本当にモロッコみたい」と微笑んでくれたのを思い出す。
その土地、その土地の香りがあるとしたら、この元町を遠くから思い出すとき、どんな香りがするのだろうか。
そんなことを考えながら、ふと磨こうとしたシャンパングラスを滑らせて床に落としてしまった。
カシャン。
小さな音を立てて、グラスは割れた。
「あらいやだ」
手を切らないようにと、ゴム手袋をして幸は割れたガラスを拾った。そして、何かの知らせでなければ良いけれど、と不安になった。
片付けが終わり、グリーンカレーを仕込もうと取りかかった。
本場のお店は袋茸を使うが、エリンギにして、鶏もももではなくささみにした。あとは乱切りにして水に浸し、アクを抜いた白茄子と、赤と黄色のフルーツ・パプリカ。ココナッツミルク、ココナッツクリーム、野菜出汁のスープを1対1対1。
まずはグリーンカレーのペーストと、レモングラスの柔らかいところと白胡椒を石臼で潰したものを、EXオリーブオイルで炒めるところから始める。香りづけはこぶみかんの葉。ココナッツ類を注ぎ、30分ほど煮込んで、ナンプラーと蜂蜜で味を整える。
白茄子はとろとろにとろけ、辛さを和ませる。
さあ、味見。
そこへ、恭仁子がやってきた。
「わー、いい香り。夏の香りがする」
「恭仁子さん、タイミングいいわ。ちょっと味見してくれる?」
「はーい」
バッグもかけたままで、恭仁子は小さいお皿を手に取った。
そしてひとくち、カレーを啜ると、目を丸くした。
「おいしーい。なにこれ」
「グリーンカレーよ」
幸は笑って言った。
「甘爽やか」
恭仁子はもっと食べたそうに、鍋を見つめた。
正午を待たずして、扉を開けた客がいた。ちょっとずんぐりしてはいるが、ピシッと真ん中で分けた髪型といい、アイロンのかかったきなりの麻の開襟シャツといい、こざっぱりした男だった。
「あの…」
「すみません、12時からなんですけど」
恭仁子が言うと、男性は「盛田幸さんですか」と、聞いた。
「いえ、幸さんは、あちらです」
目が合った瞬間、幸は反射的に「竹内さん?」と呟いていた。昭和の終わり、大阪・北新地で羽振りよく飲み歩いていた外資系保険代理店の社長の名前だった。その男は熱海で暮らす先輩ママのミツコといろいろあった男であり、幸が東京へと駆け落ちしたパグが最初に入った会社の社長でもあった。
しかし、咄嗟に幸は思い直した。いやいや、目の前にいるのは若かった頃の竹内の顔なのである。まるでタイムスリップしたかのように、ポカン、とその顔を見つめた。
「僕は難波です。あの、あなたが盛田幸さんですか」
「はい、そうですが」
「実は、僕は難波美津子の息子です。光と言います」
光!ヒカル!幸の脳裏に瞬く間にまだ幼かった光の姿が浮かんだ。訳あって大阪から岡山のミツコの実家へ行ったとき、そこにいたミツコの息子の光。あの光なのか。
ミツコは黙って竹内の子を産み、母親に子育てをゆだねていたのだった。
「あの、私、あなたが子どもの頃に、岡山で会ってますよね。おばあちゃんと」
「なんとなくしか憶えてないんですけど、そうらしいですね」
ミツコの母親からヤクルトを手渡されて一気飲みしていた姿がダブった。
今、ここにいる光が口を開いた。
「あの、今日、来たのは、母が亡くなりまして」
「えっ」
さっきシャンパングラスが割れたのはこのことだったのか。幸は覚悟していたこととはいえ、なんともいえない悲しみが立ち上ってくるのを抑えた。