光は、紺色の革のトートバッグから小さな赤い巾着を取り出した。
「それで、母が、これを、あなたにと」
巾着を開けると、そこには文字盤にダイヤを敷き詰めた銀色のピアジェの腕時計が入っていた。
幸はその時計をしみじみ見つめた。新人だった10代の幸にミツコが「電池換えてきて」と渡し、戻ってきた幸が目を離したすきに隠して泥棒騒ぎを起こそうとしたときの、あの時計だった。
当時の悔しさ、恐ろしさ、でも厨房のジョージが助けてくれたときの安堵。ジェットコースターのような数分の出来事が、脳裏を駆け巡った。それは不思議と、もはや自分ではない誰か他の人に起こった事件のように。
目の上あたりまで掲げ、見つめた。むしろ、懐かしさが心を覆った。
幸は静かにその時計を巾着に戻し、光に渡そうとした。
「こんな高価なもの。… 私はいただけません」
「それは困るな。あなたにという、遺言なんですよ」
「…」
そんな時計をもらっても、していくところもない。あのとき、メンテナンスにお金がかかるものだということもわかっていた。それに大事に持ち置いたとしても、自分には今度それを譲り渡す相手もいない。
でも光は揺るがなかった。
「何か思い出があるんじゃないですか。とにかく、あなたにもってもらいたかったみたいなんですよ」
「… わかりました」
幸はその赤い巾着をおし頂いた。
光は、ほっとしたように、ため息をついて頷いた。
そして言った。
「母がもう一つ、最後に言ったことがありまして」
「はい」
「…いや、まあいいんですが」
「どうしたんですか」
「さっき、僕を見て、竹内さん、とおっしゃいましたね。あれは誰ですか」。
幸の胸がどきりとあることを確信させた。光は父親に会ったことがないのだ。
「もうすぐ店を開けますけれど、ちょっと座って、カレーでも食べませんか」
「あ、はい、お店ですもんね」
光は言われるがままにカウンターに座った。幸は炊けたばかりの雑穀ごはんを型で抜き、グリーンカレーをまわりに盛り付け、レモングラスの葉を飾った。
「はい。和みのグリーンカレーです」
「旨そうだな。いただきます」
先に白茄子がとろけたところからひと匙口に入れ、光は目を見開いた。
「甘くて辛いな。うまい」
食べるのに夢中になっている光は、子どもの頃に戻ったようだった。あのとき、小さな男の子だった光に添い寝したことも、蘇ってきた。そういえば「僕のお父さんは誰」と光に聞かれると、ミツコの母は「新地の神さん」だと教えていた。
光はカレーを飲むように食べ終えた。
「ごちそうさまでした」
そして安心したように、口を開いた。
「母が…もし、父に会いたかったら、幸さんに聞くようにと言いました」
幸は苦笑いした。心はとっくに、そんな話ならなんとかしなくてはと思っていたが「いなくなってからもミツコさんは私に面倒をかけるんだなあ」と、半ば呆れたような、可笑しいような気分だった。