
燃え尽きた線香の灰が、一本分、白い香皿の上に落ちている。
緑色の一本は煙を天に伸ばし、燃え尽きるとグレージュの灰になる。人間のようだな、と、畑野知佐子は遺灰の入った小さな骨壷を見やった。
香皿の前には亡くなった夫、和彦の遺影がある。
銀のフォトフレームのなかの顔は笑っていない。こちらをじっと見つめているようだ。
仏壇はない。時折、花を飾るだけ。
彼の生前の望みに従って、遺灰は海に帰し、少しだけ手元に残した。
毎朝、そこに手を合わせ、線香を手向ける。
白い煙が一筋、たちのぼる。やがて弧を描き、揺らめいて、空気になじむ。
白檀の香り。毎日香の少し上等の。「少し上等」が、和彦は好きだったから。
おはようと、心の中で言う。それ以上、何を言っていいのか、知佐子にはわからない。
27歳で結婚してずっと一緒にいたのに、生きているときから、あまり会話のない二人だった。
和彦は定年間際、膵臓にがんが見つかって、たったの3週間で亡くなってしまった。
悲しむ間もなく法的な作業がいろいろあって、ずっと専業主婦だった知佐子には苦手な分野で、まごまごした。
夫の言う通りに、なんでもやってきたから。
亡くなる前に病室で和彦は言った。
「遺灰を海に撒いてくれ。そういうことをやっている会社があるはずだから、調べて、な。頼んだぞ」
「わかりました」
淡々と生きてきた二人だけれど、そう言われた瞬間が一番、知佐子には悲しかった。ああ、もうこの人、いなくなるんだ、と実感したのだ。
「他になんか、してほしいことはある? なんでも言って」
「派手なことはいい。美恵子とおまえで家族葬にしてくれ」
知佐子は意外に思った。娘の美恵子は29歳。生保の会社に勤めていて、八王子の支社にいるので、一人暮らしをしている。
和彦はとても社交的で常に外を向いている人だったから。この若さで葬式をすれば、たくさんの人が集まるだろう。お世話になっていた人もたくさんいるに違いない。
賑やかに送ってほしいと言われるのではないかと思っていたのだ。
「それでいいんですか。…お別れの会とか」
表情を少し和らげた和彦が言った。
「人付き合いの苦手なおまえにできるわけないだろ。そんなこと」
「…」
「ありがとな。いつも一人で待っててくれて」
知佐子は自分たちは夫婦だったんだ、と、その一言だけで救われた気がした。
それから、和彦はすぐに昏睡状態になったのだった。