「こんばんは」
美味しいものの匂いがするのかと思うほど、いいタイミングで佐伯はやって来る。セルジュと佐伯が顔を合わせるのも、ずいぶん久しぶりのことだ。
「こんばんは、洸さん」
「こんばんは。セルジュさん、…でよかったですか」
「もちろん。ヒョウ柄オヤジとでも、倉木とでも。好きに呼んでください」
「じゃ、僕もセルジュさんと同じ白ワインをください」
佐伯はセルジュのグラスを目で追い、そう注文した。
「はい」
幸はワインを出し、セルジュに出したのと同じ、からすみと大根、帆立のお皿を用意した。ふと思いついて、青レモンの皮もグレーターでさっと削った。
セルジュはそれを目ざとく見つけて言った。
「今、何したの。えこひいきじゃない」
「はいはい」
半分残っていたセルジュの皿にも、青レモンを削った。
「いいねえ。味変ってやつだ」
もともと人を妬むような気持ちもさらさらないセルジュはにっこり笑った。
洸は黙って、目の前に来た皿から一口食べた。
「ああ。美味しいな。これ、そこの金木犀の花を散らしても美味しいんじゃない」
幸はあの香りに同じように洸が気づいてくれていたことが嬉しかった。
「いい香りですよね。お花はお猿さんみたいに、木を揺らさなきゃ落ちてこないけど」
「あなたならやりかねないね」
洸はそう言ってにっこり笑った。
季節と、ワインと、料理と。なんだか全てが一体になっているような夜だった。
「いいなあ。和の食材は本当にいい」
洸はどこか懐かしむようだった。セルジュは2杯目のグラスを傾けて、洸に訊ねた。
「海外もあちこちいらしたでしょう。住んだこともあるんですか」
「若い頃にロンドンと、パリには少し」
「いいなあ。住んでみたいね」
「実は… 来年、またロンドンに住むんです」
その言葉を、幸はグラスを拭きながら背中で聞いた。え。洸さん、ロンドンに行っちゃうの。そう心で叫んだが、肩のあたりを少しビクッとさせただけだった。何か、聞いてはいけないことを聞いてしまったかのように、すぐにはそちらを振り返れなかった。
自分がどんな顔をしているかも不安だった。哀しい顔になっていないか。青ざめていないか。
普通の顔をしなくては。この店のあるじとして。お客様に対しての顔を。
そう自分に言い聞かせて、幸はそおっと、おそるおそる、振り向いた。
「佐伯さん、ロンドンに」
「うん。街中からは1時間ぐらい離れた郊外なんだけどね。昔から世話になっている向こうのエージェントと話がまとまって、あるスタジオのプロデューサーも兼ねて、しばらく常駐してくれないかという話になって。そのスタジオのオーナーが亡くなって、そこに住みながら音楽活動ができる人を探していて。現地の人間が見つかるまで、とりあえず2年ぐらい、という話でね。僕もその間につくりたいものがあるし」
「それは素敵な話だなあ。ほら、テレンス・コンラン卿も、ロンドンから100キロほど離れたバークシャー州に赤い煉瓦の邸宅を建てて住んでいたんだよ。広々とした空。緑がそよぎ、小鳥がさえずる。いいねえ。最高だねえ」
セルジュはうっとりして言った。洸はその言葉に煽られるように続けた。
「バークシャーまで行かないんですが、小さな小川があって、橋がかかっていて。鴨が泳いでいて。本当にいいところなんですよ。遊びに来てください」
洸は幸にも「遊びに来て」と微笑んだ。幸はそれには答えず、やっとのことで聞いた。
「いつからいらっしゃるんですか」
「年が明けて、20日ごろかな」
「そんな急な話なんですね」
言いようのない寂しさが胸を塞いだ。「沢さんと一緒ですか」という言葉は、飲み込んでしまった。