その夜、佐伯洸とセルジュは、まるで30年来の友達のように語り、明るく飲んでいた。幸も、一緒になって久しぶりに飲んだ。
足元をふらつかせながら二人が帰ってしまうと、幸はグラスを洗う気力もなく、カウンターの中の丸椅子に座った。
しばらくぼんやりしていたが、水を一杯飲むと、片付け始めた。
二人が座っていたあたりから、微かにムスクと葉巻が入り混じった香りがした。人の姿はないのに、香りだけが残っていた。それが、洸がいなくなることをまた思い知らせた。
幸はその香りを消そうと、お香を一本たいた。
シナモンやバニラをブレンドした、どこかオリエンタルな香りのお香を。それは洸が行ってしまうヨーロッパとは正反対の場所の香りだった。
香りを吸い込むと、もやっていた心が元に戻っていくようだった。
淡い淡い片想いの終わりだった。幸は洸がここにいる空気が好きだった。彼がここにいるだけで、この場所は特別なものになったのだ。そんな人は他にいなかった。いや、誰しもその人のいる空気をつくる。でも、洸のつくる空気が、気配が特別だったのだ。
大晦日のコンサートは、壮行会にもなるのだろう。
ギャルソンエプロンを外してたたみ、トートバッグにしまうと、灯を消した。
扉に鍵をかけた。
夜中の冷たい空気のなかを歩き出すと、あの金木犀の下で、また立ち止まった。
見上げると、オレンジ色の小さな花が輝かない星のように瞬いていた。
手を伸ばし、ひとつ摘んで、口に入れた。ほとんど味はしないが、その香りはほのかに感じられた。
「さすがに12月にはもう咲いていないわよね」
ひとりごちると、じんわり瞳が潤んだ。秋が終わり、冬がやって来る。まるで人生みたいに。
幸は海辺の部屋に向かって、ゆっくり歩を進めた。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
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イラスト サイトウマサミツ
イラストレーター。雑誌、パッケージ、室内装飾画、ホスピタルアートなど、手描きでシンプルな線で描く絵は、街の至る所を彩っている。
手描き制作は愛知医大新病院、帝京医大溝の口病院の小児科フロアなど。
絵本に『はだしになっちゃえ』『くりくりくりひろい』(福音館書店)など多数。
書籍イラストレーションに『ラジオ深夜便〜珠玉のことば〜130のメッセージ』など。
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