岡部はそんな二人のやりとりに、口元だけで笑っていた。目が笑っていなかった。
小さな乾杯をしてひと口飲むと、こう切り出した。
「忙しいのに、ごめんな、呼び出して。実は俺、手術することになってさ。ちょっと厄介なんだ。頭だから、開けてみないといろいろわからないらしくて」
「そりゃ大変だな」
佐伯は、淡々と相槌を打った。
岡部は低く言った。
「入院する前に、会っときたかったんだ」
「うん」
「…」
沈黙が流れた。
どの空気に割り込むべきか、割り込まざるべきか。長年の経験値を幸は頭のなかでフル回転させた。この間、岡部の妻の恭仁子がここで「洸さんのことをいつまでも思うから、バチが当たった」と泣いていた顔を重ねながら。
佐伯の胸にはどんな想いがあるのだろうと、海から星空を見るような気持ちでいた。
岡部が言った。
「恭仁子が元気がなくて。今日も一緒に行こうと言ったんだけど」
「そりゃ、おまえが手術するなんて、ショックなんだろなあ」
佐伯の言葉に、岡部はそれ以上のことを考えている様子もなく、頷いた。
「うちは娘も仕事が忙しくてほとんど帰って来ないし。俺が入院したら、ほんとにひとりなんだよな…」
岡部は恭仁子のことばかり考えているようだった。ごくり、とワインを飲むと、グラスを持ったまま言った。
「あのさ、だから、もしも俺になんかあったら、あいつのこと、頼むよ」
「よせよ。なんかあったらとか、いうな。絶対言うな」
佐伯は強く言った。学生の男の子と男の子の会話のようだった。
「うん」
岡部はうなだれた。
佐伯はたたみかけた。
「恭仁子さんにとって、おまえは今なんだ。俺はもう昔だ。大事なのは、今なんだ」。
佐伯はそうだ、とばかりに幸を見た。
「幸さん、なんか、美味しいもの。病院で絶対食べられないやつ」
突然のフリに、幸は一瞬、鳩のように首を傾げたが、かしこまりました、とエプロンを整えた。
こんなときのために、冷凍しておいたものがあった。
ある東京のシェフに教えてもらった、ミートソースだ。
合い挽き肉と玉ねぎとトマトケチャップ。この単純な3つをストウブ鍋で延々煮込むのである。
2時間を超えると、いわゆるメイラード反応というのが出てきて、焦げ目から甘い香りがしてくる。糖度の高い玉ねぎだとかなり甘くなるので、最後はバルサミコ酢で整える。
スパゲッティは一人80グラム見当で茹でる。
解凍したソースをかけ、一皿ずつパルミジャーノを削る。
「チーズを削りますから、ちょうどいいところで、OK、って言ってください」
「… OK!」
湯気のたったミートソースに茹でたてのパスタとチーズが絡む濃厚な味わいは、どこか喫茶店の懐かしさがある。パスタとソースを絡めるとき、チーズが良いクッションになる。3つが相まった濃い味わいは、学生時代に喫茶店で食べたような気がする、と佐伯は思い出した。
「上手いな、これ。ほら、西門の近くにあった、何っ言ったかな、あの店のミートソースに似てるよ」
「ああ。あの店のパスタはもっと太くてべたっとしてたけどな」
岡部は食べながら続けた。
「… 恭仁子と3人でも食べたな」
「今日、来ればよかったのにな、あいつ」
二人は少年のようにあっという間にパスタを平げた。
口元を紙ナフキンで拭きながら、岡部が言った。
「素晴らしくうまかった。また食べたいな」
幸はすかさず言った。
「退院祝いはまたここで食べてください」
岡部は目を閉じて頷いた。やっと本当に微笑んだ顔になった。